〜最優秀(県知事賞)〜 |
「外国から知る祖国日本を通して」 |
高水高等学校二年 大矢 格(おおや いたる)さん
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春休み、台湾を訪れる機会を与えてもらった。台湾のことが気になりながら、書物の中でしか情報が得られない現実に、いらだちを覚えていた。台湾のことを、一年、また一年と学ぶうちに、私は、台湾に対して、間違った認識しか持っていなかったことに気付いた。台湾を訪れる前に間違いに気付いたことは、良かったことかもしれない。
私が抱いていた間違った認識とは、次のようなことだった。台湾も韓国や中国と同様、第二次世界大戦が終わるまで、日本に支配されていた。その時の、日本人の行動が、韓国人や中国人の心の中には、良い感情として残ってなく、日本人は悪人と思われている。反日感情が大きいのである。台湾の人たちも、日本のことを良く思っていないだろうと、私は単純に考えていた。
しかし、昨年末、一冊の本と出会って、その間違いに気付いた。台湾人は、親日家で、日本にとても感謝しているというのだ。一瞬信じることができなかったが、本をじっくり読んで、少し納得した。
台湾の人たちは、植民地や支配という言葉ではなく、統治という言葉を使う。実際の内容がどのようなものだったのかは、よく分からないが、実力のある多くの日本人が台湾へ派遣されている。本当は、日本だけでなく、世界的に活躍しているのに、五千円札が出て初めて知った新渡戸稲造さんも、台湾で活躍した人の一人だ。桂太郎、乃木希典など、著名人が派遣されているが、終戦までに、のべ一九人が台湾総督として、その任についた。日本でも、まだインフラ整備ができていない時代に、政府は、一流の人材を次々と台湾へ送り、インフラ整備と教育に力を入れていったらしい。東京でさえ下水道が整備されていない時に、台湾では、下水道の整備がされ、衛生状態が改善され、伝染病が一掃されたらしい。また、教育が必要だからと、どんな身分の人も、貧しい人も、就学が奨励されたそうだ。貧しい家庭には、就学のためのお金まで与えられたそうだ。
さて、私は、台湾を訪れて、日本人の私に対して、どのような応対をされるのか、少し不安だった。親日と本に書かれていても、本当は反日かもしれないからだ。しかし、その不安は、あっという間に、ふっ飛んでしまった。出会う人、出会う人、皆が、「私たちは日本のおかげで、ここまで生きることができた。心から感謝しています。」
と言ってくれるのだ。それも、私たち、日本人が忘れかけている美しい日本語で。
戦後、既に六十年以上たっている。統治していたのは、終戦までだ。それなのに、昔を忘れずに、他国語の日本語で、ていねいに感謝の気持ちを伝えてくださることに、大きな驚きを感じた。現在、国際協力や国際理解ということが盛んになってきており、小さな子どもから大人まで、この言葉を知らない人はいないであろう。しかし、言葉だけが先行している部分がないとは言えないだろう。しかし、国際協力や国際理解といった言葉がなかったかもしれない昔に、心から現地の人たちの幸せを望んで活動してきた日本人が存在することは、すばらしいことである。そして、その人たちのおかげで、私たちまで感謝されるということは、幸せなことではないだろうか。
台湾を訪れて、「知らないことが多すぎるということ」、これが、私の正直な感想だ。自分が国際協力だの国際理解だと言う前に、日本人の歴史を知らないのだ。八田興一という技師の銅像も残っている。後藤新平の業績も残っている。さて、日本人高校生の何名くらいが、名前を知っているのだろうか。日本人が日本人のことを知らないことほど恥ずかしいことはない。業績を残すということでなく、「神様」として祭られている日本人もいた。「飛虎将軍」と呼ばれているこの人は、自分の命を犠牲にして、多くの台湾人の命を救ったのだ。彼が祭られている建物を訪れた時、突然、「君が代」が流れてきた。外国で耳にする国歌に目頭が熱くなってしまった。わざわざ私たち若者のために、国歌を流して下さるという配慮に再び、胸がジーンとした。
海外に行くことは、国際協力だけが目的ではないことを実感した。日本が失った日本を見つけることもできる。知らない日本史を知ることができる。そして、取り戻したい日本精神にふれることができた。私にとって、生涯忘れられない旅になった。
台湾で活躍した後藤新平の言葉が心に残る。「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残すこそが上なり」正に、台湾には心の美しい人、美しい日本語が残った。世界中に人が残るような活動を見つけようと思った。 |